歴史の概略

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マレーシアのマレー人は、元来フィリピン、インドネシアとともに台湾から南下したとされるオーストロネシア語族に含まれます。現在でもマレーシアとインドネシアはマレー語を話しています。敢えて人工的に作られたものが今日のインドネシア語となっていて90%はマレーシア語と共通しています。フィリピンでも南部のセブ語はマレー系の言語です。ですから、広くオーストロネシア語族と言った場合、台湾の高砂族、ベトナムのチャム族なども含まれ、今日の国境線はこうした民族の分布とはかけ離れた一面があることを知っておく必要があります。古代のマレーシアは明確な場所が特定できる資料がないために歴史的な詳細は明らかでないことが多いのですが、紀元前3世紀には鉄器の使用が確認されていて、紀元前2世紀に既にモンスーンの季節風を利用してインドや中国との海上の往来があったことが知られています。やがて主にマラッカ海峡を利用する海上交易の要所として、3世紀のシュリーヴィジャヤ(室利仏逝)や7世紀の赤土国といった海上交易国家が生まれますが、その資料は中国やインドの古文書に依っています。例えばシュリーヴィジャヤに関しては唐の僧侶義浄が書き残したり、「新唐書」などに記録されています。
これらは一つの国家というより、当時の海上を支配していたいくつかの港市国家から成り立っていました。10世紀になると同じ地域に三仏斉が興りますが、中国へ送った朝貢使節はそれぞれ異なる港市国家がいずれも三仏斉を名乗っていたことが知られています。当時のこの地域の宗教はインドから伝わったバラモン教、ヒンドゥー教の他に中国から伝わったと見られる大乗仏教があり、航海安全を観音菩薩に祈っていました。しかし13世紀にマラッカ海峡に立ち寄ったマルコ・ポーロは「東方見聞録」の中でこの地域がイスラム商人の影響でイスラム化されていたと伝えています。古く8世紀にはイスラムが居住しており、10世紀にはアラブ商人の活躍で多くのイスラム陶器がこの地を通り、九州の太宰府まで届いていました。13世紀の末にはシュリーヴィジャヤからマジャパヒト王国の支配へと移りますが、これが最期のヒンドゥー教王国となります。1396年にインドネシアのスマトラ島に建国されたマラッカ王国は後にこのマジャパヒト王国に追われてジョホールからマラッカに遷都します。1405年には明の鄭和の遠征隊がマラッカを訪れ、2万7千人の乗組員が交易のためマラッカに倉庫をつくり、ここを交易の拠点とします。この後マラッカ国王がイスラムに改宗したためマラッカにイスラム王国が誕生します。また、同じ頃、マラッカ王国は琉球(現在の沖縄県)とも緊密な関係を築き、1446年に現在のタイ(シャム)のパタニまで勢力を伸ばしシャム軍を退けています。マラッカ王国の交易網は東南アジアの島々に広がり諸般の王をイスラムに改宗させています。このように海域を中心にできた共同世界をムラユ世界と呼び、そこでは会話はマレー語で文字はアラビア文字からできた「ジャウィ」を使用しました。

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