内戦の歴史

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1960年シハヌークは国家元首に就任。その後、1965年のアメリカの北ベトナム爆撃に抗議してアメリカとの国交を断絶しますが、この頃、国内は安定していました。ところが1970年にその時の首相のロン・ノルがクーデターを起こしシハヌークを国外に追放します。アメリカと中国はこのクーデターを事前に知っていたと言われています。ロン・ノルはクメール共和国を樹立し、ベトナム系住民を虐殺すると共にアメリカは北ベトナム軍の輸送路であったカンボジア国内のホーチミン・ルートを爆撃し、その時何十万人というカンボジア人が巻き添えになっています。
一方、中国にいたシハヌークはポル・ポトら共産主義者たちとカンプチア民族統一戦線を組織し、ロン・ノル政権と戦います。1971年からアメリカがカンボジアへ侵攻しますがその目的はカンボジア内の共産党の拠点を叩くことでした。しかし1973年にアメリカがベトナムから撤退するとともにロン・ノルは軍事力を失いアメリカのハワイに亡命します。
そして、1976年ポル・ポトとシハヌークは民主カンプチアを建国。しかし、ポルポトは共産主義とこうした王制は相容れないこともあり、シハヌークを幽閉しクメール・ルージュの独裁政権がカンボジアを支配し、ベトナムがポル・ポトを倒す1979年までカンボジアは地獄と化します。この期間、ポル・ポトの武器等の実質的な支援は主に中国で、またアメリカをはじめとした国連機関もポル・ポト及びクメール・ルージュに支援金を出しました。有名な現在も残るカンボジアの地雷はこうした援助を元に埋められたものと言われています。
一方、1975年にアメリカ軍を退け、南北の統一を果たしたベトナムは中国の文化大革命に疑いを抱き、ソ連との関係を強化します。1978年頃にはカンボジアは中国の支援を背景にベトナムへ侵攻しますが、同時にカンボジア国内では行き過ぎた政治に対する反乱を恐れたポル・ポトがベトナム国境近くに展開していたクメール・ルージュ将兵を処刑などしたため10数万人のカンボジア軍民がベトナムへ逃亡します。この頃から一部の報道機関にカンボジア国内に虐殺が進行していることを報道されますが、国際世論は何れもこれを否定しています。唯一、ベトナムは難民からカンボジア国内の状況を把握しており、1978年の暮れに元クメール・ルージュの将校ヘン・ソムリンにカンボジア難民らを集めたカンプチア民族救国統一戦線を組織させ、ベトナム軍と共にカンボジアに侵攻、1979年ヘン・サムリンはベトナム軍の力でプノンペンを制圧し、カンプチア人民共和国を宣言しますが、国際世論はこれをベトナムの傀儡政権であるとして認めません。また、この直後中国はベトナムがカンボジアに介入した制裁としてベトナムに侵攻しますが、すぐに撤退。1981年ヘン・サムリンは首相となり新憲法を発布、またクメール・ルージュの元指揮官フン・センが副首相に就任しました。その一方で中国はポル・ポトとシハヌークを北京で引き合わせ民主カンプチア連合を組織させ、カンボジアはまたもやヘン・サムリン政権との間で内戦へと突入、1984年主にベトナム軍はこの民主カンプチア連合の拠点をほぼ制圧しますが1988年にベトナム国内の混乱を引き金に1989年カンボジアから撤退しました。こうしてヘン・サムリン及びフン・センの政権は武力による後ろ盾をなくし、カンボジア国内は再び内戦状態となります。

こうして1991年ようやく国連が仲介役を買って出てカンボジア和平パリ会議に基づきUNTACが統治し、内戦の終結を迎えます。1992年にUNTACの平和維持活動が開始し、1993年国民議会による総選挙が実施され、シハヌークの第一夫人の息子(ラナリット)を第一首相、フン・センが第二首相と言う二人で統治することが決まり、またシハヌークは国王に即位しました。しかし1997年フン・センの武力クーデターによりラナリットは国外に逃亡。1998年の総選挙によりフン・センが第一首相になりカンボジアの実権を握り現在に至っています。また、シハヌークは2004年に退任し、現在の国王はシハヌークの第六夫人の息子(ノロドム・シハモン)が引き継いでいます。また、ポル・ポトは1998年に死亡しています。

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