ミャンマー連邦へ

imgp6445-x1988年8月以降、国内は10万人規模の集会とデモが繰り返され、各地で国軍との激しい衝突が起こります。この時の主な指導者の一人が暗殺で殺されたビルマ建国の立役者アウン・サンの娘のアウン・サン・スーチーです。国軍は激しい戦闘を制し9月18日に全権を掌握し軍事政権を宣します。国軍を率いていたソオ・マウン大将は人民評議会を廃止して国家法秩序回復評議会(SLORC)を設置し、ネィ・ウィンが指導したBPSSは民族統一党(NUP)に名を変えます。同時にこの時、国名をビルマ連邦からミャンマー連邦に変更し、日本政府はいち早く軍事政権を承認したため、これ以降日本ではこの国を「ミャンマー」と呼んでいます。
軍事政権であるSLORCは、この時同時に複数政党の導入と総選挙を約束しました。1989年7月に国民民主連盟(NLD)書記長アウン・サン・スー・チーを自宅に軟禁した上で、1990年5月に約束通りSLORCは総選挙を行い、国民民主連盟(NLD)が得票率の65%を獲得し、485議席中392議席を占めて与党だったNUP(BSPP)に圧勝しました。この時点でミャンマー国民がビルマの民主化を望んだことが明確になります。またアウン・サン・スー・チー女史にはノーベル平和賞が送られます。ところが軍事政権はこれらを無視してそのまま政権に居座り、1992年に軍事政権議長にタン・シュエ上級大将が就任し、市場経済の導入に踏み切り、1993年に国民会議を招集し新憲法の草案に着手します。1997年にはSLORCを解散して、国家平和開発評議会(SPDC)を設置しますが、1962年のネィ・ウィン体制がそのまま存続していると考えられています。
1997年、ASEAN通貨危機に伴いミャンマーのGDPが急激に落ち込み、これまで以上に中国がミャンマーの政治、経済、軍事にわたって介入するようになったため、このことを危惧したASEAN連盟はミャンマーの連盟加入を承認します。しかし現実には国連、国際世論はこの軍事政権を認めていないこともあり、ASEAN諸国は協力関係を築くためにもミャンマーの軍事政権に抜本的な変更を求めているようです。1990年の選挙で圧勝したアウン・サン・スー・チー女史は今でも自宅軟禁と拘束を繰り返していて、アメリカとEU諸国は制裁措置を強化させています。2006年10月にはミャンマー中部のピンマナ近郊にネピドーという都市を建設しそこに遷都しますが、ここへの一般人の立ち入りは禁じられています。2007年にはガソリンなどの燃料が最大5倍まで値上がりしたため各地で大規模なデモが起こり、これを取材した日本人カメラマン長井健司さんがデモを制圧する国軍に射殺されました。2008年には新憲法の法案を国民投票にかけ、今年の2010年に総選挙が行われる予定になっています。軍人は議会の25%とする憲法のために、選挙前に多くの軍人が民間人になって選挙活動を戦うと見られ、また憲法によってスー・チー女史は立候補できないために軍関係者が議席の大半を占めることになると予測されています。

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