ポルポトとは

ポル・ポトが実権を握る1975年に先立って1966年頃から中国は毛沢東の思想を前面にプロレタリア文化大革命という名の階級闘争を押し進めていました。一見その名称から思想的闘争という印象を受けますが、毛沢東が中国の大躍進という政策の失敗により政治的窮地に立たされたため、主導権を取り戻すための革命と見られていて、彼自身もこれを階級闘争と明言しています。
元々、ポル・ポトもこの中国政府を後ろ盾に台頭しているため毛沢東の文化大革命を積極的に支持していましたが、これに彼独自の原始共産主義を加え、貨幣経済以前の社会には「搾取」はなかったとし、貨幣による社会を廃止して家族と言う枠組みさえも超えた生産活動に支えられた、土地や財産の所有を一切認めない共同社会を目指しました。実際には都市部に住む住民全てを何も持たせず身体一つで農村へ送り、農作業と灌漑事業などの土木作業に従事させ、またこうした事業の全てを人力のみで行います。しかし食事は一日二杯ほどのお粥のみで自然の果物や魚であってもこれを口に入れたら財産を私有したと見なし処刑されます。また、重労働と栄養失調のために動けなくなってしまった者は放置され、やはり死にました。この様な有様でこの間カンボジアの人口の三分の一が亡くなりました。中国の文化大革命の犠牲者は数百万人から一千万人、ポル・ポトのクメール・ルージュによる犠牲者は百万人から三百万人と言われています。通常このような既存の国家に見られない新しい試みを政治に取り入れようと思うならば、まず国民が理解できるものでなければなりませんから、そのための教育が重要であることは誰の目にも明らかなのですが、ポル・ポトは宗教施設のみならず学校すらも破壊したと言いますから、こうした思想よりも単純に政治を独裁することが目的だったと思われます。つまり、こうした共産主義の思想が「独裁者以外は皆平等」という非常に身勝手な政治を可能にすることでも分かるように、いかなる政治であってもそれは民間人に対しては権力として作用するのです。また、この間、中国は一貫してポル・ポトを支持し続けましたが、ポル・ポトが台頭した1975年には、既に中国国内では文化大革命は失敗であったという結果が出ています。
これらの事が私たちにとっても重要であることは、私たちが日本の太平洋戦争を振り返って当時の日本政府は狂っていたのではないかと漠然と思うように、また、中国において文化大革命とは何だったのか中国人ですら答えられないのと同様に、今日のカンボジア人たちもポル・ポトのことを未だに私たちに対して説明できないでいます。そして、こうした国の政治よる犠牲者は、政治家が政治家自身を裁かない限りいつまでも解決できないために、やがては歴史から忘れられるという運命から逃れられません。問題がどこにあったのかを国民自らが考えない限り、被害者である国民にはそれを防ぐ術はありません。現カンボジア政権は元クメール・ルージュの幹部たちであることに変わりはないため、日本の戦後と同様に、この問題を検証し解決するということはないでしょう。現在のカンボジアで元クメール・ルージュの少年兵たちも既に40歳を超えています。しかしその彼らは今も一般の市民と同化しながら暮らしています。当時の被害者も表面上は穏やかに暮らしていますが、今でもその家族に深い傷を残しています。サロット・サル(ポル・ポト)のことをカンボジア人に尋ねることは未だに難しいというのが実情です。
ところでこのポルポトがカンボジア内で猛威を振るっていた1975年の日本は首相が佐藤栄作から田中角栄に変わり、「日本列島改造論」に従い全国に高速道路を整備し、地方の工業化を進め、「グリーンピア構想」の元で全国に保養施設を造るために年金保険料から2000億円を拠出することを決定します。全ては地方の活性化を目指したものですが、この結果は皆さんのご存知の通りです。また、アメリカのベトナム戦争を支援しつづけた佐藤首相は、アメリカの核の傘に入ることで日本の非核三原則を守ったという理由でノーベル平和賞を受賞しています。結局、この時期のカンボジアを報道したジャーナリストが国内外にいたにも関わらず、日本の政治家は誰一人としてカンボジア国内の虐殺を止められませんでした。もっとも背後にいた中国政府の責任が大きいでしょう。

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