第2次タウングー朝

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しかしバインナウン王の子ニャウンヤンは1597年アヴァ(現マンダレー管区)を拠点に、再びメイッティーラー、ヤメーディン、シャン地方を得て、その後のアナウペッ・ルン王がピェー、タウングー、シリアム、マルタバン、イエー、チェンマイを奪い返し、1626年には東はケントン、チェンマイ、西はヤカイン山脈、北はモーガウン、センウィー、南はダウェーに到ります。シリアムを管理する立場にあったポルトガル人はアナウペッ・ルン王によってアヴァに連行された後、「バインジー」と呼ばれた世襲性の砲兵隊となり土地を与えられます。この子孫は現在でもローマン・カトリックを信仰しながらミャンマーに暮らしています。
こうして第2次タウングー朝はニャウヤン朝と呼ばれ、戦乱による多くの難民と捕虜を得て再びビルマの中央平原に君臨しました。前のタウングー朝末期の混乱を踏まえ、アナウペッ・ルン王が治めるビルマ国内ではタウングー城市とピェー城市からその主権を剥奪した上で自分の一族に与え、さらに中央から知事を派遣し、また知事を監視する軍司令官などの目付を配置します。しかしながら、やがて領主を監視していたはずの知事たちは領主と結託し、一方、中央では王族たちが派閥をつくり税の横領など様々な不正がはびこり17世紀後半には次第に国は衰退します。この頃にウー・ヌによってビルマの本格的な正統史である「大年代記」が作られます。

まず、東方でチェンマイとシャン藩侯が離反し、西北のインドのマニプールの騎馬隊に襲われ、ペグーの知事までも反旗を翻します。やがて1752年にチェンマイと同盟を結んだペグーの城主ビンニャー・ダラによって王都ペグーは陥落します。その後、ビルマは無政府状態と化しますがそんな中でも地方の領主は健在でした。また、シリアムには一時、イギリスとフランスの東インド会社があり、ここを拠点にヨーロツパの火器や商品をビルマに輸入し、象牙や綿花、チーク材の造船などが輸出されます。しかし、イギリスに依るマレーシアのマラッカの開発が進み、やがてビルマでの活動は衰退します。その後。ペグーのタメントー王にイギリスの東インド会社は焼かれてしまい、フランスだけが残り細々と海外との交易が続けられました。

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