西洋とコンバウン朝

sdim1519-xこうした中で1754年にシュエボー(現コンバウン)、ミョウの領主出身でアヴァに攻め込んだアラウンパヤーが中央平原を支配します。1756年にはフランスが駐留しているシリアムを占領しますがアユタヤへ遠征途中で亡くなります。これを引き継いだシンビューシン王はチェンマイ、ビエンチャン、ルアンパパーンまで遠征し、1766年に清朝の乾隆帝の遠征軍を4度に渡り撃退し、1767年にアユタヤを征服します。1783年にはボードーパヤー王は新しい都をアマラプーヤに建設を始めますが、タイのターク・シン王の台頭とともにタイ・ビルマの支配権を巡って1785年とその翌年にタイに遠征しますが、逆に撃退されてしまいます。中国とはその後長い冷戦を経て1790年には清国と管理貿易を始めます。これをコンバウン朝と呼び、多くの戦争捕虜を王都アヴァに連行し、これに西洋人の砲手も加わり軍事力は強大になりました。そうした中で1798年にトゥインティンタイ・ウィミンヂー、マハーシィートゥーが「新大年代記」を編さんし、1802年には戸籍台帳に基づく全国的な調査が行われます。1832年にバヂドー王によりビルマの建国神話である「瑠璃王宮大御年年代記」が完成します。

その頃、イギリスはシリウムからの撤退後、チッタゴンを支配下に治めました。そんな中、コンバウン朝の王都アマラプーラで天然痘が発生し、多くの難民がチッタゴンへ避難します。次いで1784年にはボードーパヤー王がアラカンを侵略し領有したことを口実にヨーロッパ独特の地理的領有権を主張する植民地支配に転じ、1824年にイギリスとビルマの全面戦争となりました。この弟1次英緬戦争に勝利したイギリスはヤンダボー条約を結び、アラカンとテナセリムを譲り受け、アッサム、マニプールの宗主権と賠償金1,000万ルピーを要求します。その後もイギリスはビルマへの干渉を強め、1852年にヤンゴン、シリアム、ダラ、バセイン、マルタバン、ピェーを占領し、イギリス領インド総督がペグーの併合を宣言します。1853年にビルマのミンドン王は和平交渉のため使節団を送り、協議の結果、アラカン、テナセリムを加えた下ビルマ全域を失いました(第2次英緬戦争)。これによりビルマの海上を封鎖したイギリスは、米や塩など生活必需品に高い関税を掛けビルマ国内にインフレが起きるように画策します。
イギリスに敗れたミンドン王は1857年にマンダレーに遷都し、急速に西欧の科学技術を取り入れ富国強兵、殖産興業への道を邁進します。外国人技師をフランス、ドイツ、イギリス、イタリア、アメリカから招くと同時に、100名を超える留学生をフランス、イギリス、イタリア、インドに派遣します。ちなみに日本の明治維新が1868年、岩倉具視ら総勢107名が岩倉使節団として世界へ旅立ったのが1871年ですから、ほぼ同じ時代です。また、1871年に紀元前1世紀にスリランカで途絶えてしまっていた南伝系仏典の第五回仏典結集をマンダレーで開き、コンバウン朝の王権の正当性を内外に訴えました。さらに税制の改革に伴いフランスの鋳造技術を導入して貨幣制度も改革し、1885年までに2,900万チャットもの金、銀、鉛、銅貨を発行しました。
1884年にビルマは経済の協力関係を結ぶ目的でフランスと緬仏条約を結びますが、1885年にこれに業を煮やしたイギリスがマンダレーに進撃し、コンバウン朝は滅亡します(第3次英緬戦争)。

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