列柱社会と国内統治

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第二次大戦前の1940年に既に現代のマレーシアに見られる民族ごとに政治基盤が異なる「列柱社会」が出来ています。この時点でマレーシアの人口はマレー人と中国人がほぼ同数で全体の90%を占め、インド人が約1割であり、マレー人は沿岸部や農村で昔ながらの生活を送り、中国人は錫鉱山や都市部の商業に進出しており、イギリス人によって強制的に連行されて来たインド人はプランテーション化したゴム農園で働かされていました。また、交易の中心となったシンガポールに於いては1911年に中国人だけで72%に達しており、その多くが男性移民で占められていたため売春の需要が高まり、公娼館がつくられ、島原半島の寒村から「からゆきさん」と呼ばれる日本の女性たちが海を渡って行きました。

こうした民族ごとに異なった社会を築いた結果、民族の住み分けは教育にも影響を与えました。マレー人は伝統に則ってイスラーム寄宿学校でジャウィ文字を使いイスラム教を教えていたが、1903年にジャウィに代わってローマ字が使われました。その一方で中国人は伝統的な儒教教育を主に広東語、復建語、朝州語で教えていましたが、1912年に北京語を使うことが一般化されます。また、インド人は学校ではタミル語を使用し、その教科書もインドから取り寄せておりました。このような植民地の状況下で学校はマレーシアのことは教えずに、当時都市部では教育に熱心だった中国人やインド人はその子弟を英語学校に通わせたため、後のマレーシアの独立に際してこうしたエリートたちが人種を超えて英語で議論を重ねることになります。現在でもマレーシアの人々は2カ国語以上を話し、そのことがこの国の国際競争力を高めています。
15世紀から始まるアジアを発見したとされるヨーロッパ諸国の大航海時代とは、結局アジアで暮らす人々の暮らしを奪い、産出される交易品を略奪した挙げ句、こうしてヨーロッパに集めた世界の富で今日の西欧の近代化を達成する礎としたに過ぎません。古来からイスラム商人はインドや中国と交易を行っていた事実を考えれば、こうしたヨーロッパ人の「発見」は世界の歴史をミスリードするものであるため、今日では既存の世界の航路にヨーロッパからインドまでのルートが加わっただけとしているようです。

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