第2次大戦と日本

1939年9月にドイツがポーランドに侵攻したことでイギリスとフランスはドイツに宣戦布告し、第2次世界大戦勃発します。ビルマではこれを受けて植民地主義に反対する自由プロックが組織され、議長に前首相のバ・モオ、書記長にアウン

西洋とコンバウン朝

こうした中で1754年にシュエボー(現コンバウン)、ミョウの領主出身でアヴァに攻め込んだアラウンパヤーが中央平原を支配します。1756年にはフランスが駐留しているシリアムを占領しますがアユタヤへ遠征途中で亡くなります。こ

第2次タウングー朝

しかしバインナウン王の子ニャウンヤンは1597年アヴァ(現マンダレー管区)を拠点に、再びメイッティーラー、ヤメーディン、シャン地方を得て、その後のアナウペッ・ルン王がピェー、タウングー、シリアム、マルタバン、イエー、チェ

タウングー朝の隆盛

1300年に入ると中国の元がビルマに侵攻し、パガン王国も元との戦いに次第に衰退し、1364年新たに興ったインワ朝はアヴァに遷都します。また下ビルマにあったハンターワディー朝はタイのアユタヤ朝が北と東から勢力を拡大したこと

パガン王朝の幕開け

1044年にビルマ族のアルニッダ王が下ビルマを平定しパガン朝を興します。1165年にスリランカの侵略を受けますが、その後、使節をスリランカに派遣し、多数のスリランカ僧がミャンマーを訪れます。この頃の碑文には古モン語、パー

ビルマ先史時代

現在、ミャンマーにあるイラワジ川、シッタウン川、サルウィン川流域には、古く紀元前3万年頃から人が住み着き、紀元前2,000年頃に既に水稲農耕社会があったと考えられています。中国の「後漢書」にはこの地域に1世紀末から2世紀

キリスト教社会

このようにフィリピンでは社会の上層部が結束しているために一般の市民が常に貧困に喘いでいるといった批判を受け、一部に農地解放などの政策も行われたことがあるようですが、その時にわずかなお金を必要とする多くの者たちが分配され受

アメリカ資本と財閥

先にフィリピンがスペイン人及び中国人との混血の割合が9割に達することをお話しいたしましたが、そんな中で一握りの人間がフィリピンの広大な土地を支配しています。これはラテン・アメリカなどとも共通していて、こうした支配層は現在